Twitterの炎上と、思想とコメントの間
おはようございます。
最近になってTwitterを再開したのですが、やはり人とのゆるっとした繋がりはいいですよね。
本名も会社名も、そのバックグラウンドも知らない人とネットで接するというのは、独立したひとつのペルソナのお話というか、普段の自分と違う自分でいられるのがいいと思う所以です。(とは言えども私の一部分なのですが)
前にTwitterをやったときは趣味全開だったのですが、趣味の熱量(ゲームとか)が冷めるにつれ、あまり見なくなってブログと一緒に消してしまったんですね。
ただ今回は趣味ちょっと+仕事を大部分という風にしているので、同じような業界の人とお話しできることが、すごく勉強になり楽しく過ごせているかなと思います。
また前述したように独立したひとつのペルソナで接することができているのもすごくいいポイントかなと。
(仕事でお会いするとどうしても、仕事の延長線でしかない)
ただ、Twitterをやっているとこのような弊害があるな、と感じます。
https://womizu.hatenablog.com/entry/2019/10/23/224232
を水さんの記事にもある通り、非モテ、女性軽視、など(あとは最近見たのだと婚活のブログや経験人数など…)といったものは、自分が探さなくてもいいねやRTで回ってくるわけです。
掲題に戻るのですが、これって本当にその人たちが怒っている理由ってなんなんだろうな、コメントする意味とはと毎回考えるわけです。
例えば婚活のブログで、年下女性を狙っています、こんな女性は嫌だった、という記事があったとします。
それに対してそれを読んだ人から「気持ち悪い」とかコメントがついたと。
その「気持ち悪い」というコメントはおそらく生理的嫌悪感から来るもので、そのように感じる方がいらっしゃる、というのは理解できます。
ただそのコメントをする、という行為と嫌悪感の間には隔たりがあると私は思っています。
だってTwitterだから匿名だし、知らない人だしという認識があるかもしれませんが、端から見たら目の前の男性に向かって「あなたは気持ち悪い」と目の前で言っているって事じゃないですか。「あなたの考えは気持ち悪い」ならまだ意見の相違ですむところ、目の前で「あなたが気持ち悪い」なんてただの侮辱なわけですよね。
嫌だなぁと思いつつ、その議論のルーツは気になってしまうため元のツイートまで遡って見てしまうのですが、この世の地獄だなと。
怒りというものはパワーがあり、目的のために怒るというのは分かるのですが、脊髄反射のように侮辱コメントをするのは何の目的のためなのだろうか。
もしかしたら新しいコミュニケーションの形なのでしょうか。
なにやらもやもやします。